二つの「杜子春」
- By: Uchidatoshio
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市立図書館へ行って、岩波少年文庫「羅生門 杜子春」を借りてきました。芥川龍之介の杜子春を読むのは、中学生以来久しぶりです。
巻末に中国文学者立間祥介(たつまよしすけ)氏の「二つの「杜子春」」という解説が載っていました。本稿は、芥川の杜子春よりも、立間氏の解説についてです。
杜子春は芥川龍之介が唐代の説話集の牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)作「杜子春」(岩浪文庫今村与志雄訳『唐宋伝奇集(下)』に収録)を題材に作品としたもので、芥川自身が「これは杜子春の名はあっても、名高い杜子春伝とは所々、大分話が違っています」と、「杜子春」附記に書いているそうです。立間氏が、牛僧孺の杜子春のあらすじを以下の通りまとめています。
「楽天家の杜子春は家産を使い果たしたすえに親戚知人に見捨てられ、初めて世の人の非情をしる。だが、そのとき町で出会った老人から三百万という望外な大金をあたえられたとたん、元の木阿弥、飲めや歌えやの豪遊を続けて一、二年で無一文となった。そこへ現れた老人は、「君はまたこうなったか。珍しい人だ」と、遠慮する杜子春にさらに一千万押し付けた。杜子春はこのような大金を手にしたうえは、これまでの生活とは縁を切り、家を再興しようと思ったが、大金を目の前にしてたちまち気がゆるみ、三、四年たらずでまた使い果たしてしまう。
そこへまた老人が現れ、「もう一度だけ機会をあたえてやろう」と、三千万金くれた。杜子春は二度までも大金を浪費してしまった自分が恥ずかしく、「これでこの世にやり残したことをすべて片づけたら、あとは何事もあなたのご指示に従います。」と誓い、老人は「君のその言葉を待っていたのだ」と一年後の再会を約して別れる。杜子春は田畑を買って離散した親戚たちが生活してゆけるようにし、世間での恩讐のすべて片をつけると、これでこの俗世間に未練はないと老人との約束の場所へ向かう。
待っていた老人は、杜子春を連れて華山(道教の聖地)に登る。そこは道士である老人が金丹を練る神聖な場所だった。老人は杜子春をそこに座らせると、「これから起こることはすべてかりそめのものである。何も恐れることはない。私の言葉を信じて、ただひたすら口をつぐんでいるよう」と言うなり姿を消した。
たちまち大軍をひきいた神将が現れて名を名乗れと迫られたが、口をつぐんでいると姿を消した。ついで、虎・竜・獅子・大蛇などがつぎつぎに牙をむいて迫り、また雷が頭上をかすめ稲妻がまわりを飛びかって消えていった。すると、先の神将が獄卒をひきいて現われ、杜子春の妻を庭先に引き出して一寸刻みにした。妻は血の涙とともに、「どうか口を開いてこのくるしみから救ってください」と哀願するが、杜子春は「すべてはかりそめのもの」という道士の言葉を信じて固く口を閉ざしていた。業を煮やした神将は、「こいつは妖術使いだ。地獄送りだ」と叫ぶ。
処刑された杜子春の魂は、閻魔の庁で地獄の責苦をなめさせられるが、うめき声ひとつもらさなかったため、怒った閻魔王により女に生まれ変わらされる。王という副知事の娘に転生した杜子春は、赤ん坊のときから病気がちなうえ、寝台から落ちたり火の中に落ちたりという責苦にあったが、泣き声もあげない。
やがて美しい娘に育ち、「物なぞ言わなくても、賢くさえあれば、おしゃべりな女よりはるかにまし」という理解ある夫に恵まれる。しかし、夫は物言わぬ妻を物足りなく思い、なんとか口を開かせようと試みるが杜子春は沈黙を守りつづける。やがてかわいい子供が生まれた。
夫は今度こそはと、「さあ、 一言、かわいいと言ってごらん」と赤ん坊を杜子春の前に差し出すが、それでも黙りつづける杜子春に逆上し、「これほどまでしても物を言ってくれないのなら、こんな子供なんぞいるものか」と、子の足をもって高々と振り上げ、庭先の石にたたきつける。赤子の頭は血しぶきとともに砕け散る。その瞬間、杜子春に愛の心がめばえ、道士との約束を忘れて、「ああ」と口走ってしまう。
その声とともに、杜子春は元の場所に座っているおのれの姿に気づく。目の前には道士も座っていた。道士の金丹炉は無惨に崩れ、紫の炎が天井を貫いて噴き上げていた。「俗物のおかげでこんなことになってしまった。」道士は歯ぎしりした。「君は喜び、怒り、哀しみ、懼れ、憎しみ、欲望までは忘れることができたが、愛の心だけはついに忘れることができなかった。君がいま、ああと口を滑らせなかったら、私の金丹も完成し、君も仙人なることができたのに。まったく、仙才(仙人になれる人材)を探すということは難しいことだ。わたしはまた金丹造りに取りかかることにしよう。君の寿命はまだ俗世間に残っている。せいぜい頑張ってみなさい」道士は杜子春に帰り道を指し示すと、さっさと道士の衣を脱いで、崩れた炉の立て直しにかかった。杜子春は世間に戻ったものの、道士との誓いを破ったことが恥ずかしく、名誉挽回を目指して崋山に登ってみたが、道士の庵はもとより人影ひとつなかったので、自分の取り返しのつかない失敗を悔やみながら引き返したのだった。」
私は、この岩波少年文庫「羅生門 杜子春」に付された立間祥介さんの解説を読むまで、芥川龍之介の「杜子春」に原作があったことを知りませんでした。牛僧孺の「杜子春」に出てくる道教の修行者である道士は、杜子春を利用して不老不死の秘薬金丹を作ろうとしていたのです。道士が不老長生の金丹を錬成する最終工程に一人の立会人が必要であり、その立会人が「喜、怒、哀、懼、憎、欲、愛」という人の心を超越したことを証明したときに金丹が完成すると立間さんは記されています。あらすじしか読んでいないので、原作の本来の機微はわかりませんが、杜子春が母親の母性による愛情でつい「ああ」といったことは、芥川の杜子春が母親の子供を思う愛情にはらはらと涙を落とし、人間の心を取り戻したところと似ていないわけではありません。しかし、原作は、金丹造りに失敗した道士があと一歩だったと悔しがる姿と、杜子春自身が「ああ」と思わず口にした失敗を引きずって終わっています。
それに対して芥川は、仙人の鉄冠子が「もしおまえがだまっていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。」と愛を捨て去る人間を否定しています。「ではおまえはこれからのち、何になったらいいと思うな。」との鉄冠子の問いに、「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです。」と杜子春が答えるのです。読み終わると、清々しい気持ちになれます。
芥川龍之介は偉大な文豪ですね。