伊能忠敬没後200年(地球の大きさが知りたかった)

伊能忠敬は、1818年4月13日(太陽暦5月17日)に没した。今年は、没後200年の年である。その関係か、NHKの歴史秘話ヒストリア「あなたの先祖も手伝った!?伊能忠敬 究極の日本地図」と言う番組が放送された。伊能忠敬が徒歩で日本を測量して、正確な地図(大日本沿海輿地全図)を作った事は、学校の授業で知っていた。もちろん、佐原(現在の千葉県香取市)の商家に婿養子に入り、50歳を過ぎてから地図を制作したことも知っていた。

この NHKの番組を見ての衝撃を受けたのは、伊能忠敬は地図を作りたかったのではなく、地球の大きさを知りたかったという事だ。忠敬は隠居して、自費で江戸に天文台を造り、幕府天文方の高橋至時(よしとき)に師事して天文学を勉強した。天体観測をして、天文学と暦の研究がしたかったのだ。

江戸時代の伊能忠敬の頃は、すでに地球が球体だという事実が日本に伝わっていた。二地点間の距離とその緯度の差を計測すれば、地球の外周が測れることが分かっていた。だから忠敬は、最初、深川と浅草の距離を測り、天体観測による緯度の差を計測して、地球の外周をおよそ35,200㎞と計算した(子午線の周囲は40007.88kmといわれている)。

高橋至時は、忠敬に測量距離が短いと誤差が大きくなり、地球の大きさが正確に求められないから、緯度の差と距離の数値が大きくなるよう計測しなければならないと教える。この時代、一般人が勝手に土地の測量をすることは、許されない。そこで、高橋至時は、蝦夷地(北海道)の測量を口実にすることを発案する。幕府は、蝦夷地に松前藩を置くが、蝦夷地の全体像を把握していなかった。高橋至時は、伊能忠敬に蝦夷地測量許可を幕府へ願い出させた。

幕府は、伊能忠敬に期待していなかったが、測量の許可をした。幕府から伊能忠敬への支給金は、測量に掛かった総支出の2割にも満たなかったという。伊能忠敬には、商売で蓄えた私財があったので、蝦夷地の測量ができたのだ。しかし、その一方で幕府の「御用」という旗印がなければ、諸藩の地形の測量などできるはずもなく、幕府の大きな権威が忠敬の測量の後押しをしたことも確かだ。

測量を終えた伊能忠敬は、江戸に帰って東日本の正確な地図を作成した。忠敬に期待していなかった幕府だが、その地図の出来栄えに感嘆した。
蝦夷地までの東日本の測量をもとに、伊能忠敬は緯度1度が111kmになると割り出した。それを360倍すると、地球の外周は39,960kmと計算される。現在知られている外周との誤差は、僅か0.1%程。伊能忠敬は、地球の大きさを測るという当初の目的を達成した。

その頃、日本周辺の海にロシアやイギリスの艦艇が姿を見せ始め、幕府は、正確な地図が必要と考えた。そして、伊能忠敬に西日本の測量を命じた。それ以降、伊能忠敬の測量を各藩に協力をさせた。忠敬は、「地球の大きさを知る」という目標を達成したが、幕命と自身の使命感により、地図作りに晩年を捧げた。日本地図の完成を待たず、200年前に死没した。幕府は、伊能忠敬に自前の資金を使わせ、諸藩に人手や金銭の協力をさせて、大した出費をしないで日本地図を手に入れたことになる。

香取警察署に、車庫証明書を受け取りに行った帰り道、真新しいナンバープレートを付けた原付バイクが前を走っていた。ナンバープレートには、陣笠に旅装束の人物のシルエットがデザインされていた。伊能忠敬の偉業は、郷土での一番の誇りのようだ。佐原には香取神宮もあるし、佐原の大祭の山車もある。伊能忠敬はそれを超える存在らしい。

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