赤穂事件(忠臣蔵)吉良上野介が可哀そう
- By: Uchidatoshio
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昨年の暮れ、NHKの「チコちゃんに叱られる」を見ました。チコちゃんが「12月24日は?」とゲストの河北麻友子さんに聞くと「クリスマスイブ」と答えました。チコちゃんは続いて「クリスマスイブてなあに?」と問いかけると、河北さんは「クリスマスの前の日」と答えて「ボーっといきているんじゃねーよ!」と叱られました。チコちゃんの答えは「クリスマスの当日の夜」なのでした。むかしヨーロッパでは 一日が日没から始まり、次の日没までを一日としていたそうです。だから、24日の夜はクリスマスのイブニングであり、25日の夜はクリスマスの翌日になるのだそうです。
同じように、日付のことで悩んでいた人がいます。その人は、「魚河岸ものがたり」で第94回直木賞を受賞した森田誠吾氏です。旧暦の12月14日は、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日とされています。森田氏の著書「忠臣蔵-川柳伝」で「十二月に入ると思い出したように、十四日という日が気になった。十二月十四日と言えば、赤穂浪士の討ち入りの日だが、本当は、十五日の間違いではないかと思うからで・・・」と著書の冒頭に記しています。
森田氏は、七十年間に1万3千余句を収めた川柳集「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)」を熱心に読まれていたようです。当時の江戸庶民が詠んだ川柳を手掛かりに、忠臣蔵として有名な赤穂事件を読み解いています。赤穂浪士の原惣右衛門の覚書の記述によれば、赤穂浪士の吉良邸突入は、現在でいう15日の午前3時頃です。現代は、午前零時から次の日へと日付が変更になります。しかし、事件の当時は、暁時分から1日が始まるから、討ち入りは14日なのだろうと、著書の最後で自分を納得させていました。
赤穂浪士原惣右衛門の事件後の覚書によれば、「吉良上野介は炭部屋の中で脇差を抜いて、赤穂浪士に立ち向かって来たが、間十次郎に槍で突かれて絶命した」という記述があると森田氏は著書「忠臣蔵-川柳伝」に記載しています。吉良上野介は、老人でありながら、勇猛に応戦した武士なのです。忠臣蔵の劇で炭小屋から引きずり出され、打ち震えている老人のイメージではありません。
年の暮れには、忠臣蔵関連のドラマがテレビでよく放映されました。私はそれらを見たことがありません。私は、あまり日本史が得意ではなく、「忠臣蔵」を47士が主君の敵討ちをする物語としか認識がありませんでした。大石内蔵助が善玉で、吉良上野介が悪玉です。
大分前のことですが、NHKの昼の番組で、愛知県幡豆郡吉良町(現在は西尾市)を紹介したことがあります。その時、吉良上野介義央は地元では名君として知られているとして紹介していました。「へー、そうなんだ。」と思い、それが微かに記憶に残りました。だから、吉良上野介が本当に悪かったのどうかが気になりだしたのです。
私なりに赤穂事件について考えてみました。この事件は、元禄14年(1701年)3月に江戸城本丸松之廊下で、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、吉良上野介義央に突然小さ刀(ちいさがたな)で切りつけ、無抵抗の吉良上野介を傷害したので、幕命により浅野内匠頭は即日切腹しました。赤穂藩は、所領を幕府に没収され、家臣は家禄を失いました。赤穂藩城代家老大石内蔵助ら47名が翌年12月に徒党を組み吉良邸を夜襲して、吉良邸の17人を殺戮し、23人を負傷させた事件といえばいいのでしょうか。
さて、上記に付き吉良上野介に何か落ち度はあるでしょうか。何も見当たりません。浅野内匠頭はどうでしょうか。例えば重度の精神疾患で、当時錯乱状態であったとすればどうでしょうか。現代の刑法では、責任を問えないでしょう。幕府は、長矩を藩主とした赤穂藩の責任を問うかもしれません。では、精神錯乱ではなく、ただの短気で事件を起こしたとしたらどうでしょう。ただの大バカ者です。
浅野内匠頭長矩の母方の叔父内藤忠勝は、赤穂事件より前に芝増上寺で刃傷事件を起こして相手を殺害したため、切腹、お家断絶という処分を受けています。当然、浅野内匠頭はその事を知っています。自分が刃傷事件を起こせば、自身は切腹し、赤穂藩は改易させられ、家臣が路頭に迷うことは当然に承知していなければなりません。それを敢えてしたのですから、ただの虚け者としか言いようがないのです。
吉良上野介は、知識人として知られています。典礼他諸事に長けています。浅野内匠頭に背中から切り付けられ、向き直ったところで額を負傷させられても、抵抗しないで逃げました。NHKの他の番組でこの件に付き、東京大学の山本博文教授が解説していました。もし、吉良上野介が刀に手を掛けていたとしたら、幕府から浅野と吉良の喧嘩とみなされる可能性があったというのです。喧嘩は両成敗などと言われる当時、吉良上野介まで処分の対象にされてしまいます。
実際幕府は、事件現場にいた人を聴取して、吉良上野介が抵抗したり刀に手を掛けたりしたかを聴き取っていたそうです。吉良上野介は、負傷して別の間で休んでいるとき、幕府の取り調べに対して、「浅野内匠頭は、乱心したのではないか。」と答えたそうです。浅野内匠頭が正気でこのような事件を起こせば、厳重な処分がなされます。もし乱心しての事件であれば、軽微な処分で済んだと山本教授は述べていました。つまり、吉良上野介は、自分に刀傷を負わせた浅野内匠頭をかばっていたのです。
しかし、幕府の取り調べに対して浅野内匠頭は、正気であり「遺恨があった」と述べたため、当時の将軍徳川綱吉の怒りにふれ、即日に切腹を申し付けられました。もし吉良上野介が松之廊下で、反撃したり刀の柄に手をかけたりしていたら、一緒に処分の対象となっていたようです。
日本大学医学部早川智(はやかわ・さとし)教授は、次のように記述しています。「侍医である寺井玄渓日記には浅野には、痞え(つかえ)の持病があり、事件の3日前に薬を調合したとしている。精神科医の小田晋は『腹部発作と不機嫌症状を伴う軽いてんかん発作があったのではないか。・・・。』同じく精神科医の中島静雄は『浅野内匠頭は典型的な統合失調症で、吉良は通り魔殺人の被害者に過ぎない』としている」。そして、早川教授は浅野が強迫性障害(OCD)であり、それが重症化して事件を起こしたのではないかと推察しています。教授はさらに、吉良上野介を悪役に仕立てた「忠臣蔵」に憤りをみせ、大石内蔵助ら47人の討ち入りを、「集団テロ以外の何物でもない。」と糾弾しています。私も、教授の「集団テロ」という意見に賛成です。
ところで、浅野内匠頭はなぜ吉良上野介に切りつけたのでしょうか。幕府の吟味の席で浅野内匠頭が「乱心にあらず。かねて遺恨あり」としたのですが、遺恨が何だったのかは語られていません。
浅野内匠頭が勅使饗応役を務めるのは2回目でした。このイベントの上司(指導役)は、2回とも吉良上野介なのでした。浅野内匠頭が饗応役でミスをすれば、当然吉良上野介も叱責されるわけで、運命共同体が足を引っ張ることは考えられないのです。「吉良に賄賂を持っていかず恥をかかされた」という話がありますが、信ぴょう性がありません。後の世間の人が賄賂と言うから聞こえは悪いですが、もし金銭の支払があっても、諸式に精通した指南役への謝礼のはずです。
赤穂の塩と吉良の塩で販売競争があったとか、吉良が赤穂の塩田のノウハウを教えてもらえず確執があったという説があります。しかし、吉良の領地の近くに塩田があっても、それは吉良の領地とは関係がなく、塩田は全くの作り話です。
浅野内匠頭は、ケチだったとの評判があります。前回より物価が上昇していたのに饗応費用を節約して、吉良上野介に叱責されたという説があります。もしそうだとすれば、吉良上野介は、浅野内匠頭に饗応役の役目を果たすための適切なアドバイスをして逆恨みされたことになります。(幕府より内匠頭に饗応費用の削減が要求されたのに、吉良上野介が前例の踏襲を主張して内匠頭が板挟みになったという話もあります。)
いずれも理由がはっきりしていないために、後付けされたものばかりで、信ぴょう性がありません。事件の起こった浅野の2回目の勅使饗応役で、吉良上野介は京都に長く出張して打合せに従事していたようです。
もし、内匠頭が事件を起こした原因が乱心によるものとすれば、江戸で一人で勅使饗応の準備をしていた浅野内匠頭は、勅使饗応役がストレスとなっていたのでしょう。勅使が京都から到着するとともに強迫観念が強まり、ついに松之廊下で衝動的に事件を起こしてしまったと考えられます。吉良上野介は、赤穂事件でのまったくの被害者となります。
内匠頭が正気であったとすればどうでしょう。内匠頭は、遺恨は以前からのものと言っています。浅野家と吉良家の接点は、当然この饗応役での準備に関してでしょう。饗応役の準備は、内匠頭が代表であり、浅野家江戸屋敷の家臣が裏方で実働します。饗応役が2回目にもかかわらず、その役目を浅野家が果たしていなかったなら、饗応役の指導者吉良上野介は、内匠頭を叱責しなければなりません。浅野家の饗応役に対する無能ぶりを吉良が指摘して、内匠頭がそれを遺恨としたのならば、幕府に対して遺恨の理由など言えません。内匠頭には大名という矜持があり、吉良を高家筆頭とはいえ「旗本ごとき」と見下していたのでしょう。吉良を松之廊下で見かけた内匠頭は、突然激昂して事件を起こしたと考えます。
討ち入りに参加した浪士の半数近くは、事件当時に江戸屋敷勤務だったようです。国元にいた藩士の数との比で、江戸屋敷の討ち入り参加割合が非常に高いですね。江戸詰めの自分たちの無能さが浅野内匠頭への叱責を招いていたなら、江戸屋敷は国元に事件の真相は言えないでしょう。吉良上野介も叱責したことを黙っていたと考えられます。
吉良上野介は、立ち話をしていたら、突然背後から浅野内匠頭に切りつけられ、負傷した被害者であり、この件で幕府が吉良に何の処分もしなかったことは当然です。幕府はこの判断に付き、関係者他に広く説明したのでしょうか。このような説明があれば、赤穂藩において、「喧嘩両成敗」などという話は持ち上がらないでしょう。殿様が乱心したばかりに、家臣が気の毒な境遇に追い込まれただけということです。
浅野内匠頭が切腹して、城代家老大石内蔵助は、赤穂城を素直に開城します。幕府に恭順の意を示して、内匠頭の弟浅野大学を藩主に仕立てて御家再興を画策します。大石内蔵助は、浅野家が再興されるのであれば、主君の敵討ち(吉良は内匠頭のただの被害者であり、敵ではありえない。)など二の次と考えていました。しかし、浅野大学が広島藩浅野家に預けられ、御家再興はなくなりました。大石は、浅野家家老職などへの道が絶たれたのです。旧藩士の急進派の手前、吉良を討つ方向に進まざるを得なくなります。(赤穂事件での浪士の目的は、仇討と謳いながら、本当の目的はリクルート(就職)活動だったという説があります。それが失敗に終わったというのです。インターネットで検索してみてください。浅野家赤穂藩には、300人以上の藩士がいて、事件までに既に就職(仕官)していた元赤穂藩士は、この事件が発生したために仕官先や周囲の人から不忠者扱いされて、大分迷惑を被ったそうです。尚、四十七士の中で、士分は36人だそうです。旧赤穂藩士の8割以上が転職や隠居をしていたのでしょう。)
大石は、夜討ちの計画を周到に立てました。吉良邸でも赤穂の残党の討ち入りを警戒していなかったわけではありません。しかし、大石の計画が卓越していたのです。大石らは、完全武装で吉良邸を夜襲しました。浪士らは、邸宅の見取り図を事前に入手しており、当直の警備の武士を急襲して倒すと、休眠中の武士達を部屋を封じておくために、戸にかすがいを打って出られなくしました。相手の戦力をそぎ落として、自分たちを優位にして吉良上野介を探し出して打ち取るという戦略です。赤穂浪士側は、負傷者を2名出しただけで、目的を達成しました。
吉良上野介は、炭部屋の中で赤穂浪士の槍にかかり、絶命しました。その状況のままであれば、死体の傷は多くはなかったはずです。事件後、幕府が調査したら、体に多数の傷がつけられていたようです。死んだ後の遺体を、浪士たちが切りつけたという事です。吉良上野介が何をしたというのでしょうか。悪いのは、浅野内匠頭であり、赤穂藩を改易したのは幕府です。赤穂浪士が敵討ちとして狙うべきは、徳川幕府だったのではないでしょうか。
その徳川幕府(綱吉)は、事件後吉良家を処断します。内匠頭の刃傷に対し、上野介が応戦しなかったことを卑怯だったと前言をひるがえして、それを親の恥辱であり、子(養子)の吉良義周が責任を取れとしました。そして吉良家は断絶します。幕府の態度が松之廊下の時と180度転換したのです。
一般民衆は、事件の真相がどうであれ、劇が面白ければいいのです。「忠臣蔵」で、上野介が善良の人であり、内匠頭がアホ殿ではだれも見てくれません。創られたイメージがどんどん独り歩きして、真実からかけ離れていきます。吉良上野介がかわいそう!
(以下は、東京都墨田区のホームページより)
吉良家の「忠臣蔵」
元禄16年(1703年)2月4日、赤穂浪士とその遺児への処分と同時に、吉良家の当主義周にも処分が下された。領地召し上げの上、信濃国高島藩諏訪家にお預けというものであった。この処分は、命を捨てても親を守るべきところ、そうしなかったのは不届きであるという理由で下された。小薙刀を振るって奮戦し、負傷しているにも関わらず、そのような理由で処断されたのである。義周は、配流から3年後に21歳の若さで病死し、名門吉良家は断絶することとなった。
さらに、吉良家をとりまく世間の冷たく厳しい目は、家臣や領民にも及んだ。そして、「仮名手本忠臣蔵」によって流布した悪いイメージが、吉良家の縁故者に追い討ちをかけた。
*吉良家処断の理由が、相違していたようなので、東京都墨田区のホームページの関連記事を引用しました。NHKの番組の中でも、吉良義周が赤穂浪士に切りつけられ重傷を負い、一時気絶したがその後も必死に吉良義央を守ろうと奮闘したことが語られていました。江戸幕府はズルい!